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作品紹介

岩佐又兵衛[勝以](いわさ・またべえ[かつもち])天正6-慶安3(1578-1650)

江戸時代前期の画家。伊丹城主・荒木村重の末子として生まれ、父が信長に反旗を翻したために一族郎党皆殺しとなるが、乳呑児だった又兵衛は奇跡的に生きのびた。京都で狩野派、土佐派の画法を学び、のち福井、江戸に住む。和漢の諸手法で当世風の機知と風刺を織り込んだ画風は、高い評価を得ている。

岩佐勝以作者  岩佐又兵衛(勝以)
作品名 『官女観菊図』 重要文化財
制作年 17世紀前半(江戸前期)
材質等 紙本・墨画淡彩・軸(1幅)
寸法(タテ×ヨコ) 131.0×55.6

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[作品解説]
この図はもとは「旧金谷屏風」と通称される作品群の中の一つであった。福井の豪商金谷家という旧家にこの屏風絵は伝来したといわれている。その屏風は各扇ごとにそれぞれ異なる画題を配した六曲一双の押絵貼屏風であったが、おそらく明治末頃に一扇ごとにばらされ、現在では軸装された状態で複数の所蔵先のもとにある。僅かな色数で簡潔に仕上げられた人物描写に品格の高さを感じられる本作品は、当時「浮世又兵衛」と呼ばれたいわゆる「又兵衛風」の人物画の最初の作品として重要である。

酒井抱一(さかい・ほういつ)宝暦11-文政11(1761-1828)

姫路藩主酒井家の次男として江戸に生まれる。諸芸に秀で、書画、俳諧をよくし、当時の代表的粋人であった。絵は浮世絵、南蘋派、狩野派、円山派など広く学び、谷文晁にも兄事した。尾形光琳に私淑し、その作風を江戸に伝えることを志し、江戸情緒を取り入れた江戸琳派の創始者となった。

酒井抱一作者  酒井抱一
作品名 『秋草鶉図』 重要美術品
制作年 19世紀前半(江戸後期)
材質等 紙本・金地彩色・屏風(2曲1隻)
寸法(タテ×ヨコ) 144.5×143.7

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[作品解説]
二曲半双の屏風に穂の出た薄の原と銀の半月、5羽の鶉が群れ、そこに女郎花、露草、そして紅葉した楓葉を散らし、深まり行く秋の武蔵野を見立てている。大変緻密な描写で、光琳の華やかな画趣を思い起こさせる。画面左下隅に書かれた落款「抱一画於鶯邨書屋」により、浅草千束村から鶯谷の新居に移り住んだ時期、49歳以後の作で、最も充実した制作期のものとわかる。

椿椿山(つばき・ちんざん)享和元 – 嘉永7(1801-1854)

江戸時代後期の画家。姓は平、名を弼、字を篤甫、別号を休庵、琢華堂。徳川幕府の槍奉行同心の子として江戸に生まれたが、幼くして父と死別。絵は初め谷文晁門下の金子金陵に学び、師の没後は同門の先輩渡辺崋山に師事した。長崎派の繊細な花鳥画に秀で、崋山亡き後は衣鉢を継いで肖像画に傑作を多く残している。

椿椿山作者  椿椿山
作品名 『久能山真景図』 重要文化財
制作年 1837(天保8)
材質等 絹本・彩色・軸(1幅)
寸法(タテ×ヨコ) 127.6×55.9

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[作品解説]
久能山は静岡市の南東にある有渡山(うどさん)の一峰で、徳川家康由来の地として江戸期には重要な幕府の拠点であった。山頂に久能山東照宮がある。
“真景図”とは特定の場所の写生に基づいた図に対して、江戸時代の文人画家が用いた呼称。椿椿山は文政10年(1827)京都から江戸へ戻る途上、駿府(静岡)の久能山を訪れ、スケッチを残している。それからまる10年を経て、その時のスケッチをもとに《久能山真景図》が描かれた。
花鳥画を得意とした椿山の珍しい風景画として、また、当時の久能山の景色を知るうえでも貴重な作品である。

竹内栖鳳(たけうち・せいほう)元治元-昭和17(1864-1942)

京都に生まれる。幸野楳嶺に師事、内国勧業博覧会など受賞を重ねる。はじめ棲鳳と号したが、明治33年渡欧後に栖鳳と改号。渡欧を機に西洋画法を積極的に摂取。大正2年帝室技芸員、昭和12年文化勲章受章。京都画壇で指導的役割を果たし、多くの逸材を育て、近代日本画の発展に尽くした。

竹内栖鳳 班猫作者  竹内栖鳳
作品名 『班猫』 重要文化財
制作年 1924(大正13)
材質等 絹本・彩色・額(1面)
寸法(タテ×ヨコ) 81.9×101.6

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[作品解説]
モデルとなった猫は栖鳳が沼津に滞在していた時、偶然見つけた近所の八百屋のおかみさんの愛猫であった。その姿に中国南宋時代の徽宗皇帝の描いた猫を想起し、絵心がかき立てられたため、交渉して譲り受けて京都に連れ帰り、日夜、画室に自由に遊ばせながら丹念に観察して作品に仕上げたのであった。
タイトルの《班猫》は、栖鳳自身の箱書きに従っている。猫の体のまだら模様を意味する漢字は、今日普通には「班」ではなく「斑」を使うべきである。しかし「班」にも「まだら」の意味はあるため、箱書きに従い、当館では《班猫》としている。

横山大観(よこやま・たいかん)明治元-昭和33(1868-1958)

茨城県に生まれる。東京美術学校で岡倉天心、橋本雅邦らの指導をうける。明治31年日本美術院創設に参加、正員となる。朦朧体(もうろうたい)など新画風を試みたのち、欧米や茨城県五浦での研鑽を経て、大正3年日本美術院を再興。以後、独自の精神主義をもって日本画壇をリードし続けた。昭和12年文化勲章受章。

横山大観作者  横山大観
作品名 『作右衛門の家』
制作年 1916(大正5)
材質等 絹本裏箔・彩色・屏風(2曲1双)
寸法(タテ×ヨコ) 各164.7x182.2

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[作品解説]
どこにでもいそうな農夫の農作業の一コマ、家畜にやる牧草を刈って家路につく様子が描かれている。馬小屋では馬が主人の足音を聞きつけ、耳をピンと立てて待っているさまが微笑ましい。作右衛門とは、特定の人物を指すのではなく、ありふれた農民らしい名前として作者が名付けたものであるようだ。
明治後期、大観は没線描写による作品を次々に発表し、朦朧体と酷評されながらも日本画の近代化を推進していったが、大正期には伝統への回帰を見せ始める。本作品では木の葉や笹の葉の自在なタッチに南画の雰囲気をたたえ、鮮やかな緑色に大和絵風の華やかさが見られる。

上村松園(うえむら・しょうえん)明治8-昭和24(1875-1949)

京都に生まれる。鈴木松年・幸野楳嶺・竹内栖鳳に学ぶ。各種展覧会で受賞、画壇に認められる。文展で受賞を重ね、文展の花形画家として名を馳せる。町方の女性や、謡曲、王朝美人などを主題にした美人図で活躍。帝国芸術院会員、帝室技芸員となり、昭和23年女性として初めて文化勲章を受章。

上村松園作者  上村松園
作品名 『砧』
制作年 1938(昭和13)
材質等 絹本・彩色・額(1面)
寸法(タテ×ヨコ) 217.0x113.0

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[作品解説]
能の中でも最も格が高い名曲の一つ「砧(きぬた)」(世阿弥作)より題材をとる。そのあらすじは以下のとおり。九州筑前の何某の妻は、訴訟のため京に上った夫の帰りを待ちわび「漢の蘇武(そぶ)の妻が秋の夜寒に、遠く北国で囚われの身になっている夫を恋い慕い、高楼に上り砧を打ったところ、その音が万里離れた夫の許に届いた」という故事にならって、思いのほどを託して砧を打った。
松園はこの作品について「都にある夫を想いながら空の一角を仰いで月を見、これから砧を打とうというところの妻女を、肖像のような又仏像のような気持ちで描いて見たものです。」と語っている。ちなみに女性は元禄から享保頃までの風俗で描かれている。

小林古径(こばやし・こけい)明治16-昭和32(1883-1957)

新潟県に生まれる。梶田半古に入門。日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会で受賞を重ね、明治40年の第1回文展で入選。一方、国画玉成会や紅児会にも参加。大正3年日本美術院再興、同人となる。ヨ-ロッパに外遊後は清澄な様式を確立。東京美術学校教授もつとめた。昭和25年文化勲章受章。

小林古径作者  小林古径
作品名 『清姫(その6) 日高川』
制作年 1930(昭和5)
材質等 紙本・彩色・額(全8面の内1面)
寸法(タテ×ヨコ) 48.9x130.4

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[作品解説]
安珍、清姫にまつわる物語は、古くから色々な形で伝わっている。一般的なあらすじは以下のとおり。奥州から熊野詣にやってきた僧が紀伊国で一夜の宿を借りる。その宿の女主人(清姫)は若くて美しい僧(安珍)に思いを寄せるが、若僧は熊野に参詣する身であるからと断り、逃げるように立ち去ってしまう。清姫は安珍に恋焦れ、大蛇となって後を追い、道成寺の鐘の中に逃げ込んだ安珍は清姫の化身である大蛇が吐く火焔によって焼き殺されてしまう。
古径は和歌山県道成寺所蔵の室町時代の絵巻「道成寺縁起絵巻」(重文)の筋書きをもとに、旅立・寝所・熊野・清姫・川岸・日高川・鐘巻・入相桜の8画面に構成した。当館では全作品を所蔵している。
この画像は《清姫・日高川》である。若僧が舟で渡ってしまったことを知った女房が川に飛び込み、大蛇となって川を渡る場面を描かれている。

村上華岳(むらかみ・かがく)明治21-昭和14(1888-1939)

大阪に生まれる。明治40年京都市立美術工芸学校、44年京都市立絵画専門学校卒業。41年第2回文展に初入選。大正7年国画創作協会結成に参加。大正10年頃より喘息が悪化し、のち同会を離れる。以後は画壇から離れて制作を続けて個展を中心に作品を発表、六甲の山、牡丹、仏画などを描いた。

裸婦図作者  村上華岳
作品名 『裸婦図』
制作年 1920(大正9)
材質等 絹本・彩色・額(1面)
寸法(タテ×ヨコ) 163.6x109.1

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[作品解説]
本作は、大正期に京都の若手画家たちが作った国画創作協会の第3回展に出品されたものである。
この女性の姿態は、インドのマトゥラーやアジャンターの彫像を想起させるようにふくよかで官能的であるが、一方では品格がある。女性は耳飾、胸飾、首飾、臂釧(ひせん)、腕釧(わんせん)などの装身具を身につけており、宗教画との関連もうかがわせる。作者は《裸婦図》を描こうと思ったわけを次のように語っている。「私はその眼に観音や観自在菩薩の清浄さを表わそうと努めると同時に、その乳房のふくらみにも同じ清浄さをもたせたいと願ったのである。それは肉であると同時に霊であるものの美しさ、髪にも口にも、まさに腕にも足にも、あらゆる諸徳を具えた調和の美しさを描こうとした、それが私の意味する『久遠の女性』である。」

奥村土牛(おくむら・とぎゅう)明治22-平成2(1889-1990)

東京に生まれる。本名義三。明治38年梶田半古に入門、半古と兄弟子の小林古径の指導を受ける。昭和2年再興第14回院展に初入選。以後、院展で活躍し、7年同人となる。37年文化勲章受章。53年日本美術院理事長。大器晩成であったが、戦後は現代日本画を代表する傑作を多く発表した。

鳴門作者  奥村土牛
作品名 『鳴門』
制作年 1959(昭和34)
材質等 紙本・彩色・額(1面)
寸法(タテ×ヨコ) 128.5x160.5

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[作品解説]
奥村土牛自身の最高傑作の一点であり、近代日本画のなかでも、傑作の一つに数えられることの多い作品である。
本作は土牛夫人の実家がある徳島に行った折り、立ち寄った阿波の鳴門の写生がもととなっている。土牛自身の回想によると「写生帳を出しても、そのころの汽船は渦のそばまで行くと揺れに揺れて、写生はおろか、身体をしっかり支えているのも困難なほどであった。このため後ろから家内に帯をつかんでもらい、まるで人が見たら符牒かと想うかもしれぬような写生を何十枚も描いた。そして同時に、その時の新鮮な印象を頭の中に刻みつけた。」ということである。画面一杯の海と大きく渦巻く渦潮、その他には遠くに見える島影のみが描かれており、簡潔な構成となっている。

now printing作者  奥村土牛
作品名 『醍醐』
制作年 1972(昭和47)
材質等 紙本・彩色・額(1面)
寸法(タテ×ヨコ) 135.5x115.8

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[作品解説]
《醍醐》は京都・醍醐寺のしだれ桜を描いた作品で、作者奥村土牛の代表作の一つである。この作品の制作にかかる約10年前の昭和38(1963)年、師の小林古径の7回忌の法要が奈良・薬師寺で営まれた帰路に土牛は醍醐寺三宝院に立ち寄った。この時土牛は「三宝院前の土塀のしだれ桜に極美を感じ写生をし、何時か制作したい」と考えるようになったという。この時土牛は2,3日通い、土塀前の満開の桜を夕暮れまで写生したという。この桜を描きたいという思いはしばらくかなわなかったが、10年を経た昭和47(1972)年に「今年こそと思って」桜の咲く時期を待ち再び同寺を訪れ、本作を制作している。

速水御舟(はやみ・ぎょしゅう)明治27-昭和10(1894-1935)

東京に生まれる。松本楓湖に師事。巽画会や紅児会に参加。大正3年今村紫紅らと赤曜会を結成、紫紅没後は日本美術院で活躍。6年日本美術院同人。昭和5年渡欧。はじめ南画的な作風を示し、次いで徹底した写実に移行。その後は琳派などを研究し、装飾性や画面構成を重視した作風を創り上げた。

炎舞作者  速水御舟
作品名 『炎舞』 重要文化財
制作年 1925(大正14)
材質等 絹本・彩色・額(1面)
寸法(タテ×ヨコ) 120.3x53.8

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[作品解説]
《炎舞》は昭和52(1977)年に重要文化財に指定され、御舟の最高傑作として、また近代日本画史上における傑作としても評価の高い作品である。
作品の制作にあたっては、大正14(1925)年の7月から9月にかけて約3ヶ月間家族と共に滞在した軽井沢での取材をもとにしている。毎晩、焚き火をたき、そこに群がる蛾を写生したり、採集した蛾を室内で写生したという。蛾に関しては克明な写生がいまも残されている。

速水御舟作者  速水御舟
作品名 『名樹散椿』 重要文化財
制作年 1929(昭和4)
材質等 紙本金地・彩色・屏風(2曲1双)
寸法(タテ×ヨコ) 各167.9x169.6

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[作品解説]
《名樹散椿》も昭和52(1977)年に重要文化財に指定された。昭和期の作品で重文に指定されたのはこれが最初である。
この椿は、京都市北区にある昆陽山地蔵院(俗称椿寺)の古木を描いたもの。白・紅・桃色・紅白絞りと種々の華麗な花を咲かせ、しかも山茶花のようにひとひらずつ散る五色八重散り椿として有名である。御舟が写生した当時、樹齢400年程の老木だったが、現在は枯れて同所に2代目の木があるが、初代の古木のような趣は無い。